島倉千代子って素晴らしい歌手でしたよね!
本当に、歌が上手くて笑顔が素敵でした。
そしてとても個性的な人でもありました。
トーク番組などでは、その個性を歌とは違った形で発揮していましたよね。
でも、彼女の人生はとても波乱に満ちたものだったようです。
借金で色々と大変だったということは、
みんな一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
ということで今回は、島倉千代子の人生について見ていきましょう。
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島倉千代子のプロフィール
島倉 千代子
しまくら ちよこ
1938年(昭和13年)3月30日生まれ
2013年(平成25年)11月8日没(75歳)
東京都出身
日本音楽高等学校卒業
島倉千代子は子供のころ、井戸から水を運ぶときに転んでしまったのです。
そして水が入った瓶を割ってしまい、
左手首からひじまに重傷を負っていしまったのです。
そこで島倉千代子の母親が、女の子だから腕を切断することはやめて欲しいと医師に懇願して、
なんとか腕が残ったのですが、47針も縫うことになってしまったのです。
しかし、腕は感覚もなく動かすこともできなかったのです。
それからしばらく経って、なんとか不自由ながらも動かせるようになったのです。
島倉千代子には姉の敏子がいました。
敏子は歌がとても上手かったのですが、
小児麻痺があったので歌手にはなれませんでした。
そこで島倉千代子は大好きな姉のために、
自分が歌手になると決意したのです。
そして地元の「若旦那楽団」に入り、アコーディオンやボーカルと務めたのです。
そして1949年には童謡『お山のお猿』でデビューしましたが、
印刷のミスで「戸倉千代子」となったしまったのです。
そして1955年3月、16歳の時に今度はちゃんと「島倉千代子」で歌手デビューを果たしたのです。
デビュー曲の『この世の花』では200万枚の大ヒットを記録して、
一躍人気歌手の仲間入りをしたのです。
1957年には『東京だョおっ母さん』がこれまた、150万枚の大ヒットを記録したのです。
しかもこれは映画化もされて、主演まで務めたのです。
そしてこの年は紅白歌合戦にも初出場したのです。
この頃、憧れだった美空ひばりとも出会い、とても可愛がられるようになったのです。
その友情は美空ひばりがこの世を去るまで続いたそうです。
島倉千代子は細木数子に持ち逃げされた?
このように、仕事的には大成功の島倉千代子でしたが、
自分自身の人生ではとても苦労をした人のようです。
その中でもとてもショックなものが、
あの細木数子に持ち逃げされたという記事をASAGEIが伝えています。
これは2005年に出版された自身の著書『島倉家 これが私の遺言』
の中でも借金について触れています。
そして当時の出版記者会見を取材した記者曰く、
島倉千代子は目に涙を浮かべて、
名前こそ出さなかったものの、自分に借金を負わせた相手に対して
ものすごい恨み節を口にしていたそうです。
それを別な記者は細木数子だと指摘したようです。
ただ、その著書『島倉家 これが私の遺言』の中で細木の『ほ』の字も出てきませんでしたが、
それは島倉が細木数子を恐れていたからだと憶測されています。
島倉と細木の出会いは1977年でした。
総額16億ともいわれる借金を抱えた島倉千代子の
後見人になったのは、細木の内縁の夫でした。
実はその当時島倉千代子は借金の取り立てに悩まされていたのです。
毎日そちらの筋の人たちが取り立てに来ていたのを、
救ったのが細木の内縁の夫だったのです。
島倉千代子の借金の額というのは、色々と違って報道されていますが、
2006年に出版された溝口敦の「細木数子 魔女の履歴書」の中では、
細木数子は島倉の借金の総額は2億4千万とか、
16億とかその時々でその額を変えていっているようです。
その額を島倉千代子に聞いても、島倉は細木のロボット同然で
借金の総額がいくらかさえ把握していないのです。
これは何を意味するかというと、
細木サイドは島倉千代子を一時期の借金の取り立てから守ったのですが、
それ以来、島倉は細木サイドの言いなりになってしまったということです。
「細木数子 魔女の履歴書」によると、
1977年に「ミュージックオフィス」という芸能プロダクションを立ち上げて、
3年間ですでに返済し終わっているかもしれない借金のために、
細木は島倉のことを馬車馬のごとく働かせたそうです。
島倉は自分の謝金の額がいくらなのか分からないので、
細木のいうことに従うしかなかったということになっているのです。
その後、細木は島倉の興行権を日本コロムビアというレコード会社に渡して、
トレードマネーとして2億円もしっかりと懐に収めたと言われています。
このような記事をあのASAGEIが、溝口敦の本をもとに書いていました。
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島倉千代子の最後の曲は?
上述のように本当に色々あった島倉千代子でした。
しかし、本当に多くの名曲を歌ってくれました。
では、彼女の最後の曲はどのような曲になる予定だったのでしょう?
2014年には「歌手活動60周年コンサート」が予定されており、
その時に歌おうとしていたのが、その曲だったのです。
この曲は、かねてから島倉がファンだった南こうせつに作曲を依頼して、
出来上がってきたのは「からたちの小径」というものです。
幸いにも、彼女がこの世を去る3日前にレコーディングが行われていました。
当初レコーディングは、11月15日に行われる予定でした。
しかし島倉千代子がまるで何かを悟っていたかのように、
「その日まで待てない」と関係者に伝えて、11月5日に急遽レコーディングが行われたのです。
そしてこの「からたちの小径」の作曲を担当した、南こうせつはレコーディングにも立ち会ったのです。
南こうせつは島倉千代子の具合から、1回くらいしか歌えないと思ったようですが、
3回も歌ったことに感動して、奇跡の歌声だったと述べました。
その翌日の6日には入院先の病院から島倉が
南こうせつへ直接電話をかけ、お礼を言ったと言います。
この曲は島倉千代子の四十九日にあたる12月18日にシングル発売されました。
まとめ
島倉千代子って大変な人生を送ったんですね!
こういったものを読んでいるだけでも泣けてきます。
でも、彼女が残してくれた素晴らしい曲を
これからもずっとっ聞いていきたいと思います。
ありがとう、島倉千代子!
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